Support Our Kids 2014 スピーチ全文

2014年6月18日、昨年に引き続き、東北から2週間のフランスステイにやって来たSupport Our Kidsの10名の中・高生のみなさんをソルボンヌ大学のご協力のもとお迎えしました。うち6名の参加者がスピーチをしてくれました。以下はその全文です。


岩手県久慈市に住んでいる、高校2年です。
私の住んでいる岩手県久慈市は、NHKの朝の連続テレビ小説「あまちゃん」で有名になりました。

2011年3月11日午後2時46分。
大きな揺れにより混乱状態に陥りました。
当時、私は中学1年生でした。

終業式を終えホッとしているさなかに、大きな地震が来ました。
鮮明に覚えています。今までの地震と違う大きな地震です。
人々のざわめきや、普段とは違う様子から「私はもう死んでしまうのだろうか?」と思っていました。

そして、速やかに帰宅するよう学校から指示が出ました。
下校中は多くの木が倒れ、揺れによって崩れた岩が、山の方からは雷のように鳴り響いていました。

帰宅し、ラジオや防災無線で海に近づかぬようにといわれていました。
後でわかったことですが、まさか町全体を飲み込むような津波が押し寄せているとは私は全く思っていませんでした。

私自身は、海から少し離れた、川沿いに住んでおり、直接的な被害は受けませんでした。津波による川の逆流で家のギリギリのところまで水がきました。
でも、津波を軽く考え自宅に待機していました。
避難警報がでていたのに・・・。

そのような状況の中避難する考えが、私の家族の中になかった当時のことをとても後悔しています。
その後逆流した川の状態が安定したころ、私は電気・ガス・水道の3つのライフラインが止まりました。
こんな夜は初めてです・・・。幾度も大きな余震が続きました。

そのときなぜか、私はふと外の景色を眺めました。
その時に見た夜空を私は一生忘れることができません。
東日本大震災により全ての明かりが消えている為に見られた夜空です。
今まで見たことのないようなとてもきれいな満天の星空でした。
不安でいっぱいの私の心の片隅に、なぜか宇宙の壮大さの威力からか、「地震に打ち勝たなければいけない。」という決意が生まれてきました。
ようやく3日目に全てのライフライン電気・ガス・水道が復旧しました。

次に、震災後から現在までの復興の様子について発表します。

私の住んでいる岩手県久慈市は、ほかの被害を受けた地域に比べ被災範囲が狭かった為、今では震災前とほとんど変わらない生活をおくることができています。
久慈市の市民は震災後前向きになって、街をPRし、様々なイベントを行い、復興することができました。
特にも被害の大きかった地域の足となる三陸鉄道が3年という短期間で全線開通したことは被災した人々に大きな感動を与えました。このように復興にはたくさんの人々の頑張りがありました。
私自身もマンドリンという地元に根付いた楽器で復興音楽会を行いました。まだまだ岩手、宮城、福島の復興には時間がかかると思うので、個人の頑張りを忘れずに前進していく街づくりをしたいです。

また、私が考える防災とは、どんな災害においても自分の身は自分で守るということです。

その意味を持つ「つなみてんでんこ」、
「つなみてんでんこ」ことは、地震があったら、他人をかえりみず自分自身で高台に逃げろと言う、岩手県沿岸地方の昔からの教えです。

今回の東日本大震災で、何人の人がその教えを守ったでしょう?
何人の人が行動できたのでしょう?
とても大事なことだと思います。

震災により私は、自分の命の重みを誰もが再認識することができました。
その命を守るのはやはり自分自身だということも同時に気付くことができました。

また、災害を防ぐためには東日本大震災など、過去に起こったことを、次の世代、また次の世代へと受け継ぐことが必要だと思います。
そのような歴史をしっかりと学ばずに、災害による被害は減らすことができないと思います。

いつ起こるか予知できない災害はこのように長い年月で対策をしなければ意味がないと思います。
私も、東日本大震災の経験を語り継ぐような取り組みをしていきたいです。

それで、フランス人に伝えたいメッセージがたくさんあります。

フランスと日本は言語や文化、震災の数や種類も異なります。
しかし、困っている国を助けようという考え方は、万国共通だと思います。
実際に私が東日本大震災を受け、フランスのみなさん、世界中の人々から多くの支援をいただきました。
世界の国々では、いつどこで災害が起こるか分かりません。
私も助けを求めている人がいる限りフランスのみなさんと同じように支援をし続けたいです。

私は支援をいただいた時、心から感謝しました。
その支援の恩返しとして、私は復興に携わるリーダーとなり、たくさんの外国の方々を招くことができるような岩手県、久慈市の街づくりをしていきます。

また、ジャポネードの皆さんのように、音楽会などをたくさん開いて、音楽は人の心を動かすことが出来ると思うので、たくさん音楽で人の心を動かして、復興に力を入れていきたいと思います。

以上で発表を終わります。


福島県から来ました。

地震が来た時、私は家に一人でいました。
テレビと携帯電話の緊急地震速報が鳴り、あわてて家の外に出ました。
外に出るとすぐに地震が来ました。
地震は大きく横にゆれ、歩くことができないほどでした。
同日、福島の原子力発電所で水素爆発が起き、放射線物質が放出されました。
震災後は水道から水が出ず、給水所まで水をくみに毎日通っていました。
一ヶ月ほど学校には、放射線量の問題があり通えませんでした。
学校が始まっても最初は窓も開けられず、屋外に出る際はいつもマスクを着用していました。
ですが次第に除染作業が進み、校庭の土の入れ替え、外で部活動が出来るようになってきました。
震災後は風評被害も有りましたが、今ではあまりありません。
今年は日本で一番大きなファッションショーである、TOKYO GIRLS コレクションが開催、昨年は東北のお祭りが集まった東北六魂祭も行われ、福島は復興してきています。

日頃から非常食や保存のきくものをたくわえておくこと、買いしめが起こった場合食料品を手に入れるのがとても難しくなるので蓄えておいて心配はないと思います。
地震で家具が倒れないようにこのようなストッパーなどを取りつけておくと安全です。

最後にフランス人に伝えたいメッセージは、フランスと福島の原子力発電所の保有数はフランス59基、日本54基とほぼ同じ保有数です。
自然災害は予測することが難しく、いつ地震が起こるか分からないので、いつ起こっても大丈夫なように、日頃から備えをしておくことです。
また、フランスの豊かな自然を活かし、原子力発電のみに頼らずに、水力発電や風力発電など、人間や環境に配慮した発電方法をしていくことが大事なのではないかと思います。

以上で終わります。


宮城県石巻市から来ました。

平成23年3月11日午後2時46分に日本の地震観測史上最大となるマグニチュード9.0、震度6強の巨大地震が発生し、その後に続いた大津波により、宮城県は沿岸部を中心に甚大な被害を受けました。
県内だけでも死者行方不明者が1万2千人に上りました。
中でも石巻市は約4千人もの犠牲者が集中する最大の被災地です。

私はその時住吉小学校の4年生でした。一旦全校生徒が校庭に避難しましたが、津波のおそれから校舎3階へ移動し、引渡しがはじまりました。
1つ下の弟と一緒に迎えに来た母と急ぎ車で家に戻りました。
父と4才の弟は家に居ましたが、家の中はいろいろなものが倒れ落ちていて、被害の状況に呆然としました。
防災無線では、6メートルの津波が来るので少しでも高い所に避難して下さいと繰り返しサイレンと共に聞こえました。
6メートルの津波がどれほど大きいのか想像もつきませんでした。
怖くて仕方がありませんでしたが、家族5人揃っていたので非難も考えましたが、家はお寺で、お寺を空けて出ることも出来ず、自宅の2階に大切なものを運び、過ごすことを決めました。

私の家は北上川の河口に近く、川まで約300メートル、海まで約3キロの場所にあります。
地震発生40分後ぐらいには津波がすーっと境内に入り込み、引き、繰り返し徐々に水位が増してきました。
夕方になると雪がまい、電気もガスも水道も止まり、真っ暗な中続く大きな余震と不気味な静けさ寒さの中、とても不安な一夜を過ごしました。
境内は3日間水没し、ドロと流れ込んできた色々なものであふれていました。

震災後3日目ようやく水が引き、外へ出られるようになりましたが、父母に家の中にいるように言われ、家の中の片付けを手伝いました。
4から5日目には町内の人が救援物資を取りに行き、お寺の会館で3町内分の配給がはじまり、境内のドロ出しや炊き出しとものすごく忙しくなりました。
身内や全国の同じ日蓮宗のお坊さんが次々と来て炊き出しやドロかき、ガレキの撤去、たくさんの物資をいただき避難所や学校に届けに行きました。

父は亡くなった方々の葬儀や遺体安置所や土葬時のお経に追われていました。
生きている人の援助、亡くなられた方々の搬送と葬儀、ガレキの撤去、全壊の家の撤去されさら地になりました。
仮設住宅は空地や公園に建ち、自力で家を再建する人、引越しする人と様々でした。多くのボランティアの人が来て小学校にもたくさんの支援が届きました。
感謝の気持ちで一杯です。
小学校は1階がしん水し、プールには車がつっ込んでいましたが、私が卒業する直前に体育館は修復され使えるようになりました中学校では今ようやく1階部分の工事がはじまりました。
仮設住宅から通う友達も多くいます。
昨年度までは小学校が空き教室を使っていましたが統廃合が進み、新しい校舎に引越ししました。

日本は海に囲まれた国なので津波が予想される大きな地震が起きたときには、少しでも高いところへ避難することが大事です。
家族で避難先などを話し合っておくことも必要です。
備蓄できるものは常備しておく。
特に水と食料、衛生用品、医療品が大切だと感じました。
しん水していた3日間は、水と食料、ラジオと懐中電灯、灯油ストーブを使い過ごしていました。
町内の人たちの救援物資の配給所になったので、日頃から近くに住む人たちの連携も必要だと思いました。

少しでも被害を少なくするためには、常に災害を意識して被害を最小限にくい止められる様に考えておくことだと思います。

フランスの方にたくさんの支援を頂き、とても感謝しています。
また、このようなフランスステイの貴重な体験をさせていただき本当にありがとうございました。
震災を機に、世界中の多くの人から頂いた様々な支援を少しでも返していけたらと思っています。
そのためには、震災で学んだことを伝え、復興に関わり、自分も多くの人を助けられるような職業に就きたいと考えています。
復興にはまだ時間がかかりますが、決して諦めずに頑張っていきます。
以上です。


まず最初に、被災した時の状況を話させていただきます。

当時中学2年生だった私は、卒業式が終わって帰宅する途中でした。
いつもより揺れが強く、危険だと思ったのでなるべく障害物のない広い場所へ行って揺れが収まるのを待ちました。
そして走って家まで帰りました。

家には母がいて、弟は小学校、父は会社にいました。
電気も水道も止まっていて、私と母は避難するかどうか迷っていました。
そして、話しているうちに津波が来るかもしれないので弟のいる小学校に避難する事にしました。

すでに小学校には多くの人が集まっていて友達にも会いました。
弟はクラスの子と一緒にいまし た。再会に喜ぶのもつかの間、「津波が来たぞ」と誰かが叫びました。
2階まで来るかもしれない、皆急いで屋上にのぼりました。
雪が降る寒い中、屋上から黒い波が小学校に迫ってきているのが見えました。

学校の校庭は黒い海水で見えなくなり、遊具も沈んでしまいました。
これは夢なんじゃないかと思いました。
でもまぎれもない現実で、連絡の取れない人達への安否をただ祈ることしかできませんでした。

次に震災後から現在までの復興の様子について話させていただきます。

家で元のような暮らしができるまで約二ヶ月かかりました。
その間、私は家に電気や水道などのライフラインが通っていなかったため
おばあちゃんの家で暮らしていました。
おばあちゃんの家で一番最初に回復したのは電気でした。
久しぶりに見たテレビは1週間ぶりだったけどなんだか懐かしく感じました。

ガスは普通に使うことが出来たので暖かいご飯が食べられました。
水道が出ないうちはおじいさんと近所の井戸がある家に井戸水を分けてもらいに行っていました。
飲み水にはならないので水洗トイレや顔を洗う水に使っていました。
2週間くらい髪を洗うことが出来ないのは辛かったけど今ではあらためて水資源の大切さに気づくことが出来たし、貴重な経験ができたと思っています。
だから、時々あの頃の電気も水もない生活を思い出して、自らの生活を見直すようにしています。

次に震災を経験して、私が考える防災・減災についてお話させていただきます。

私は震災で経験した事を、経験したことのない人達に伝える、語りついでいく事が最大の防災・減災につながると思います。
絶対に忘れないと思っても、年が経つにつれ、記憶は風化していってしまうでしょう。
実際に体験していなければなおさらです。
津波の恐ろしさ、震災前は分かりませんでした。来るわけない、自分に無関係なものだと思っていたからです。
地震で津波が来るといっても小さな波くらいだ、沿岸に近づかなければ大丈夫、そんな事はありません、建物を破壊して人を飲み込む大きな津波だってやって来るのです。
完全に災害被害を無くすことはできないでしょう、でも震災について語るだけで、それを聞いた人達が少しでも今後の災害に対して関心を持ち、備えを忘れなければ減災につながると思います。

最後に、フランスに住んでいる方々に伝えたいメッセージを話させていただきます。

フランスの皆さんはあまり地震を経験された事がないと思います。
日本では、ほぼ毎日のように地震が起きています。
だから震災前までは地震が起こることは当たり前で、津波なんて来るわけがないと思っていました。
津波で死んだお父さんも、多分油断していたのだと思います。
津波が来ないと思って逃げなかったのだと思います。
もしくは、避難している途中で助からなかったのです。

人はいつ死ぬかわかりません、だから今は後悔しないように勉強や自分の好きな事を楽しみましょう。
災害が起きたら状況をみてすぐに避難してください。

自分の人生は一度きりです、やり直すことは出来ません。ゆっくり、でもあっという間に時間は進みます
だから自分の命は大切にしてください。

以上で終わります。


こんにちは。私は宮城県の気仙沼市から来ました。
気仙沼について少しだけお話させていただきたいと思います。

気仙沼は宮城県の北東部に位置し、美しい海に面しています。
魚は新鮮で美味しく、刺身や鮨として食べます。
私は炭火焼きしたサンマも大好きです。
しかし、2011年3月11日にその気仙沼の街は、大地震と津波で一変しました。

それでは、東日本大震災について話します。
当時、私は小学6年生でした。
卒業式まであと残り一週間くらいで、3.11を迎えました。
最初、地震はコトコトコトコトと小さい音から始まり、
「あぁ、また地震か」という気持ちだったのですが、だんだん揺れが大きくなり、蛍光灯が下に落ちてきたり、尋常じゃないくらいの揺れでした。
その後、校庭に避難しました。
学校のそばには川がありました。
先生が見に行くと、川底が見えるくらい川の水が引いていたので、
「これじゃだめだ」
と言って校舎の3階まで上がりました。
津波はその川をものすごい勢いで逆流してきて、校舎のもう少しで2階まで届くというところまで来ました。
私はその光景を見てとても驚き、怖くなりました。
その晩は外にも出ることが出来なかったので、学校の3階で一晩過ごしました。
もちろん1階が浸水したということは、体育館にも行けないので、体育館に備蓄してあった毛布や食べ物、水なども取りに行けず、カーテンを取り外し体に巻いて暖をとりました。
その晩は外は雪が舞いとても寒かったです。
その小学校には全校生徒に加え地元の住民の方々や幼稚園の子達が集まって総勢600人くらいの人数でした。
その夜は緊急地震速報が鳴り止まず寝つけませんでした。
仙台市の荒川に死体が200から300体という、同じニュースばかり繰り返されていて、私自身凄く怖かったことを覚えています。
その夜は火災で明るかったです。
川の対岸まで火が来て、いつ校舎に火が移ってももおかしくないという状況で、そのまま不安な夜を過ごしました。

翌日父が学校に迎えに来てくれて、家族と会うことができました。
しかし家族が何処に居るのかわからないという子たちは、3月12日の夜も学校で過ごし、その翌日に自衛隊さんのヘリコプターで近くの避難所まで運んでいただきました。
その後、多くの仮設住宅が建ちました。
小学校、中学校、近くの公園、大きな市のグラウンドにたくさんの仮設住宅が建ち、合わせて10箇所以上の小中学校の校庭が使えない状況になりました。

津波が気仙沼市の多くのものを流しました。
しかし気仙沼市は地盤沈下という大きな問題にも見舞われました。
地面が1メートル以上も沈下して、満潮時になるとその陸地が潮で満たされてしまう状況になって、震災から3年が経ったのですが埋め立て工事も全然終わっておらず、沿岸部は手付かずの状態です。

私自身は家が全壊し、避難所を3回変えました。
一見街が復活したように見えますが、まだ実は復興半ばなのです。

地震や津波は私たちにとってとても悲しい体験でした。
しかし私はたくさんのチャンスを得ることができて、そのチャンスを吸収できたと思っています。
私は二度と同じような思いをしたくありません。
もちろん他の日本の人達にもしてもらいたくありません。
ですので、高校生の私に出来る事は、次世代の人々にこの震災の状況や復興の仕方を伝えていくことだと思っています。

最後に、フランスの皆さんには震災後からずっとたくさんの支援をして頂きました。
私たちはフランスの皆さんのおかげで、私たちは立ち直ることが出来たと言っても過言ではありません。
本当に感謝申し上げます。
もし、将来フランスで何か問題がおきたら、私自身率先してたくさんの支援や援助をしていきたいと思っています。
これからもよろしくお願いします。


私の経験した3.11について話します。
私は仙台二華高等学校2年です。

まず私の被災した時の状況についてお話します。

2011年3月11日14時46分、私は学校で6時間目の授業中でした。
私が通っていた学校は自宅から離れた山の近くの学校でした。壁にひびが入ったり落下物があったりはしましたが、校舎が新しかったのもあり、学校は安全でした。
しかし、信号はもちろんついておらず、帰宅困難者も多かったために道路は混乱状態。
スクールバスで通っていた私は帰宅することができず、学校に一泊し、ようやく次の日に友人の車に乗せてもらい、帰宅することができました。

父と母はそれぞれ職場に居ました。
母は沿岸部だったため、津波警報により帰宅できず、通勤で使っていた自家用車は津波にのまれてしまいました。
父も県職員だったため震災後しばらく仕事に泊まり込みであたっていました。

3月11日のあとはライフラインもすべて止まり、私がいままで想像もしていなかった生活を体験しました。
これについては後で詳しく述べるつもりです。
そして、学校にいた私はラジオや友人の携帯で沿岸部の状況を知り、とても驚きました。
この日からしばらくは止まらない余震におびえながら生活していました。

南三陸町は父の実家で、祖母とおばが生活していました。
その実家は海が直ぐ目の前にあったので、チリ地震のときにも津波が来ていて、津波に対する警戒は強かったので、地震後すぐ避難しました。
自宅は流失してしまいましたが、現在は私たちの近くに引っ越して生活しています。

実はその2日前にも、やや大きな地震が起こっていました。
その時も津波警報が出ていましたが、津波はきませんでした。
沿岸部でこのようなことが地震の時はよくあります。
だから、3月11日も津波は来ないだろうと思って避難しなかった人も多くいました。
津波で亡くなった方が多かった原因のひとつには、そういう沿岸部ならではの事情も原因の一つであると思います。

震災後から現在までの復興の様子について。

まず私は、ふるさとを奪われた人々と、震災遺構についてまとめてきました。
原発のことはさっき(他の人が)話してくれたので、私は津波被害が大きかったせいで電車もお店もライフラインも整っていない地域についてお話します。

私の祖母とかがそうなんですけど、もう一度その土地に住みたいと思っても、住める環境がなく、電車やお店がないのはもちろん、その地域に住んでいる私の知り合いも買い物や通学が本当に大変だと言っています。
地域に人が居ないと、私達が当たり前に通っている学校ですら成り立たなくなってしまうということを実感しました。

次に震災遺構についてお話します。

現在は震災遺構というものが問題になっています。
これは、震災を忘れないために、津波の怖さを忘れないために、震災のシンボルとなるものを残そうという動きです。
しかし、被災した人の中には、震災のことを思い出すからいち早く撤去してほしいという人もいて、どうするのか決まらないまま建物が残っています。
このままでは、建物も風化してしまいますし、撤去もされないままで、双方にとってもよくありません。
この写真は南三陸町の防災庁舎です。
これはいままさに自治体と市民とで今後どうするかもめている建物です。
私の祖母と叔母は、思い出すのはつらいけど、また同じことを繰り返さないためにも、そしてこれから生まれてくる震災を知らない人たちにもその恐ろしさを伝えるために、建物は残してほしいと言っています。
私も同様の考えなのですが、被災者の中には家族をその場所で亡くした方もいるので簡単には解決しないかと思います。

次に、震災を経験した私が考える防災・減災についてお話します。

私はこのプログラムに参加するまで、正直子どもだし、お金もないし力もないし、防災のために何をできるのかわかりませんでした。
自分のすぐ近くに困っている人が大勢いるということとはわかっていて、そのために何かしたいと思っても、行動を起こせるほどの力もお金もないのでどうしたらよいのかわかりません。

少し話はそれますが、私は、高校生の間、一年ほど留学したいと考えていました。でも、震災での経済的理由の為にそれは断念し、正直その時は不満がありました。
でもその後、どうしても夢を諦められずに、こうやって自分で探して、このようなプログラムに参加させてもらったりして、形は違っても、叶えることができています。
それ以上に震災前よりも海外に関わりたい理由もはっきり見えて、思いが強くなりました。
だから、自分の行動で自分の将来は十分変えることができるし、マイナスもプラスにできると思いました。
なので、私はこの経験から、受け身の姿勢を変えたいと思っています。

防災への取り組みも同様に積極的に行動しようと思うようになりました。実際、わたしたちの周りには被災した子供のためにいろいろ活動、支援してくれている大人がたくさんいます。
その人たちに、何かをしたい気持ちを伝え、一緒にできることを考えて行動していきたいです。

最後に、フランス人に伝えたいメッセージ、これからについてお話します。

まず、震災の支援に対する感謝を伝えたいです。ありがとうございます。
募金や支援物資などに助けられたのはもちろんでしたが、それ以外にも日本のために祈ってくれたり、日本を助けたいと思ってメッセージをくれた方々がたくさんいたと知って、とてもうれしかったです。
自分の周りには支えてくれる人がたくさんいるとわかりました。
それは知り合いや日本に限らず世界中にいると知りました。
だから、もし今つらいことがあって悩んでいたりしていたら、周りには助けてくれる人は世界中にたくさんいるということを忘れないでほしいです。

さらに、だれかが親切にしてくれたり、心配してくれるのは誰にとっても嬉しいことであるとわかりました。
震災を経験してない人が気持ちをわからなくていやな思いをさせるかもとか不安があっても、気にかけてくれる人がいることがいるのはとても嬉しいことなので、これからもそんな優しい気持ちを自分は大切にしていきたいです。

そして次に、いまの生活のありがたみや幸せさを知ってほしいです。
普段大変なこととか、日々に対する不満とかいろいろあると思いますが、一度あの震災を経験すると、そんなことに不満をもっていることはとても欲張りなことなのだとわかります。
いつもは恵まれすぎて、当たり前と思っているからそんな細かい不満とか悩みも出てくるのだと思います。
電気が使えることも、お店でものが買うことができるのもありがたいことなのです。
それを忘れないでほしいです。

最後に、家族をはじめとする周りに人を大切にしてほしいです。
いつ突然会えなくなってしまうのかわかりません。
私は地震後にしばらく家族や祖父母と連絡がとれなかったときとても不安で、もしこのまま会えなくなるなら、あのときもっと優しくしてればなどたくさん後悔したと思います。
だから、これからは家族や友人との時間を大切にして、後から後悔しないようにたくさん尽くしていきたいと思いました。
さらには、関わりが薄くてもつらいとき、大変な時に助けてくれる人はとても多いです。
だから普段接する機会がある人にはできる限り親切に丁寧に接したいと思うようになりました。

この写真は私の父の実家の南三陸町の商店街で、ここにいる人たちも仮設住宅の人が多いのですが、このさんさん商店街では被災者が海の幸を使った料理などを売って、復興に向かって明るく頑張っている人が多くいるということを知ってもらいたいです。
震災を経験して辛い思いをしたり、大変な思いをして苦しんでいる人も多いけど、その分またこうやって頑張ろうとしている人もたくさんいます。
また東北では、プロ野球チーム東北楽天ゴールデンイーグルスが初の日本一を達成して、東北中がとても盛り上がりました。
そのように東北は、皆が頑張ろうとしています。

これから私はこのような体験を通してまた復興に関わりたいという思いも強くなったし、自分ができる事をたくさんしていきたいと思いました。
以上です、ありがとうございました。


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