Support Our Kids 2015 スピーチ全文

Support Our Kids - Lycée Racine


東日本大震災について

  1. 東日本大震災について
    東日本大震災時は、自宅にひびが入り、棚や家具などがほとんど倒れ、足の踏み場もない状態でした(写真1)。
    そして原子力発電所が爆発したため、放射性物質が飛散しました(写真2)。3カ月たっても、自宅の放射線量が1.7マイクロシーベルト/h以上ありました(写真3)。外で散歩ができないため、子犬のクッキーも祖父に預かってもらい、離れ離れになってしまいました(写真4)。窓も開けずに、1年間暮らしましたが、弟が喘息にかかったため、山形に避難しました。
    そして1年後、福島市の放射線量が下がってきたので、福島市にもどりました。現在は除染も進んだので、子供たちは外で元気に遊んでいます。また福島のコメや野菜は検査をきちんとしているので、食べることができるようになっています。しかし、今でも放射能に汚染された地域では、人が住めない状態で、1万人以上が避難生活をしています(写真5)。
  2. 訪問国や各国からの支援と復興の様子について
     東日本大震災のとき、日本や福島は各国から多くの支援を受けました。福島県民にとって、フランスからの支援は特別な意味があります。フランスは原子力発電が盛んなので、原発被災対処の支援を受けました。原子力機構アレヴァからも、技術的指導に加えて、核反応を止める働きのあるホウ酸や作業員を守る被曝防御服などをもらいました。それ以外にも、フランス国民からの温かい応援や募金ももらいました。おかげで復興も進みつつあります。フランス国民の皆さんに、心からお礼を言いたいです。
  3. 東北の現状と地元の魅力について
    まず、東北地域では復興は着実に進んでいますが、まだ避難している人も多く、原発の廃炉には数十年かかります。しかし、この状況でも、東北の人は、復興に向けて、頑張っています。次に、僕の地元の福島の魅力は、やはり自然がきれいで、温泉もあります。そして、桃やリンゴなどの果物の栽培も盛んでフルーツ王国です。わらじ祭りのような伝統的なお祭りもあります(写真6)。まだ風評被害がありますが、僕はふるさとの福島がとても好きです。
  4. 現地の人に伝えたいこと
     震災の時には、海外の人たちからも、募金などたくさんの支援をしてもらったので、まず感謝の気持ちを伝えたいです。また災害が自分の所で起きるわけがないと、甘く見ないで、災害について知り、防災に努めてほしいと思います。最後に福島は人が住めないと思っている海外の人も多いですが、正しい情報を伝えて、復興に向けて頑張っている人たちがいること、僕たち子供たちも元気に暮らしていることを伝えたいです。

    写真1 地震直後の自宅

    写真1 地震直後の自宅

    写真2 福島第一原子力発電所の事故p1-image003

    写真2 福島第一原子力発電所の事故

    写真3 自宅の放射線量(2011年6月、自宅の外と内) p1-image005

    写真3 自宅の放射線量(2011年6月、自宅の外と内)

    写真4 子犬のクッキーと弟

    写真4 子犬のクッキーと弟

    写真5 除染した土

    写真5 除染した土

    写真6 福島

    写真6 福島


  1. 東日本大震災概要・自分の体験
     東日本大震災で、私の住む久慈市は8・6mの津波に襲われました。私の家は被害がありませんでしたが、家の近くの水族館や叔母の家が津波で流されたりしました。
     東日本大震災が起こった時、私は小学6年生で友人の家で遊んでいました。その友人の家は、急な坂の途中にあり、目の前には海がありました。経験した事のない大きな地震の後、窓から海を見てみると、波が遠くまで引いていくのが見え、友人のおばあさんに「すぐに山の上まで避難した方がいい!」と言われました。その時、一人で留守番をしている家で一人の妹の姿が頭をよぎりました。避難警報の音が鳴り響く中、妹のことが心配でたまらなくなり、焦りと不安を感じたことを覚えています。その後、小学校に避難する途中、家の近くの川が溢れそうになっているのが見え、不安がより一層強くなりました。小学校に着くと、妹が一人で泣いていました。私は友達と居ても怖かったのに、妹はどんなに怖かっただろうと心が痛くなりました。その日の夜は、家族と小学校に泊まり、周りの人たちと協力しあいながら、食べ物や毛布を運びました。その日はこれからのことを考えて不安で眠れない夜を過ごしたこと覚えています。
  2. フランスや各国からの支援と復興の様子
     私の家と家族は無事でしたが、ライフラインが止まり、たくさんの人が大変な思いをしました。水道が使えなかったため、近くの山から水をくんできたり、電気も使えなかったため、食事を作ったりするのが大変でした。そのような大変な状況でもスーパーにでは、海外からの商品が並んでいるのを見ました。普段見かけない外国製の食品があり、支援物資として届けられたことが分かりました。他にも毛布や医薬品などの品物が提供されたことをニュースで見ました。さらには、フランスのレスキューチームが震災発生後にかけつけ被災地で救助にあたっていることを知り、心が温かくなり、感謝の気持ちでいっぱいでした。ありがとうございました。
     また、私には忘れられない出来事があります。それは私が中学生の時、復興支援事業としてルーブル美術学専門の仏人講師が学校を訪れ、ルーブルの作品を紹介してくれたことです。古代エジプト美術の作品を中心に特徴を紹介していただき、とても貴重な時間を過ごすことができました。こんなに遠くの国の人も復興を支援してくれているんだと身近に感じ、嬉しかったです。そのころから私は、いつかフランスに行き、ルーブル美術館に行ってみたいと思っていました。だから、今回、私の夢が一つ叶いました。  
  3. 東北の現状と地元の魅力について
    私が住んでいる久慈市や近くの野田村には、仮設住宅が建ち、半壊した体育館なども、修復されました。ですが、久慈市以上に被害を受けた地域は、まだ津波の大きな爪痕が残っています。私はマンドリン部に所属しているのですが、今年の三月に仙台市、陸前高田市、大船渡市を巡る演奏会を行いました。甚大な被害を受けた、仙台空港は元通りになっていました。ですが、陸前高田市や大船渡市は私が思っていた以上に復興が進んでおらず、荒涼とした平野が続いていました衝撃を受けたのと同時に、復興の大変さを改めて感じました。現地の方々は、マンドリンの音色を楽しみながらも、四年前ことを思い出し涙を流す方もいらっしゃいました。その時、聞きにきてくれたのは、みんな仮設住宅や復興支援住宅に住んでいる方です。不安や苦労を抱えながらも、元気に生活している事を確かめることができました。
    また、陸前高田市や大船渡市の方は、私以上に辛い思いをしたにも関わらず逆に私たちの心配をしてくれました。元気をあげるつもりが逆に私たちが元気をもらいました。
    岩手県、東北にはこのような優しく温かい気持ちを持っている人がいっぱいいます。また、どんなに大変な状況でも助け合い、立ち直れる強さを持っています。これは、東北の人々の魅力の一つだと思います。
    東北の魅力はたくさんありますが、私が伝えたいものの一つに盛大なお祭りがあります。私が住んでいる久慈市にも秋祭りがあり、山車と呼ばれるきれいな車が町を練り歩きます。この山車は、その日のために、一年間かけて住民が手作りしたものです。東北には、他にもたくさんの魅力あるお祭りがあるので、是非一度見に来てほしいです。
  4. みなさんに伝えたいメッセージとこれからについて
     私が皆さんに伝えたいことは、東日本大震災で多くの人が犠牲になり、四年経った今もなお、自分の家で暮らすことができない人がたくさんいるということです。それは、津波で家が流されてしまった人、福島の原発事故で地元に帰ることができない人たちです。福島に住む私の友達の話では、震災後、原発事故のため何度も転校し、友達と離れ離れになってしまったそうです。今も辛い思いをし、元の生活が出来ていない人がたくさんいるということを、そして、このような震災があったことを忘れないでほしいです。
     また、もう一つ伝えたいことがあります。それは感謝の気持ちです。食料や救助の支援、そしてこのようなホームステイプログラムを企画して下さったことに感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。
     私は、これからもあの震災のことを忘れずにたくさんの人に伝えたいと思います。地震の恐ろしさ、被災地で見た景色、日常生活のありがたさ、そして家族の大切さを伝えたいです。この震災で、改めて私はたくさんの人に支えられていることに気づきました。だからこれからは、支えてくれた人や、支援してくれた人に感謝の気持ちを伝えられるように、様々なことに挑戦したいと思います。そして、被災地に貢献できる人間に成長したいです。

  1. 東日本大震災概要・被災した自身の経験について

    震災発災当時、私は小学4年生でした。大きな地震だったのでとても怖かったです。家には被害はさほどありませんでしたが、1ヶ月以上断水したので不便な生活を強いられました。また、私はいわき市に住んでいて原発が近かったため、一時的に県外に避難しました。原発事故のため学校は休校になり、避難者が続出したため、お店がほとんど閉まってしまい食料品や日用品が不足したので、避難しなかった人は大変でした。放射能を恐れ、しばらくは外出もできず洗濯物も外に干すことができませんでした。タイにいるイギリス人の友人が私を心配し、しばらく私を預かろうと申し出てくれたので、私は1年ほどバンコクで暮らしました。
    バンコクのインターナショナルに通い、たくさんの友達ができたのはとても楽しかったのでよかったのですが、やはり家族みんなで暮らせることが一番だと思います。この経験から、私は家族の大切さを学びました。また、家族同様に接してくれた友人一家にとても感謝しています。この一家のように、困っている人にすぐ手をさしのべることができるような大人になりたいと思っています。

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  2. 訪問国や各国からの支援と復興の様子について

    震災後、フランスを始め世界各国からいろいろな支援をいただいたことはみなさんが知っているので、私は実際に自分で体験したことをお話ししたいと思います。
    2011年11月、フランス人で世界的に有名なバレリーナのシルヴィ・ギエムさんがいわき市に公演に来て、有名なモーリス・ベジャールの「ボレロ」を踊ってくださいました。バレリーナであれば誰もが知っているギエムさんが、私たちの町にわざわざ来てくださると知って、私を含めバレエ仲間は興奮し、みんなで公演を見に行きました。そのダイナミックな踊りにとても感動しました。ギエムさんは公演後残って、バレリーナの卵たちにサインを書いてくださり、私も少しお話しすることができました。東日本大震災でかなりの仲間がバレエを辞め、また県外へ避難して戻ってこない仲間もいたので、暗くなりがちなバレエ教室でしたが、ギエムさんとお話できたことで、また以前のようにバレエを続けていこうと強く思いました。
    在日フランス大使館は2011年5月から東北を文化事業で応援するキャンペーンを展開してきました。その一環として、パリ・オペラ座バレエ団のトップ・ダンサーたちが、日本で公演を行ったり、東北の子どもたちにバレエのレッスンを行ったりしてきました。私もそのレッスンに参加して実際に教えていただきました。震災後数年が経っていましたが、私たちを忘れずに応援してくれているんだなぁと感じました。
    物質的な支援にもとても感謝していますが、私の心を支えてくれたフランスの支援は私の心に強く残っています。今はバレエ教室にも仲間が増え、震災前のようにみんなで毎日楽しく練習しています。

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  3. 東北の現状と地元の魅力について

     岩手県や宮城県では、津波による被害があった地区周辺に被災者が戻ってきて家を建てたり、事業を始めたりして、復興が進んでいるようです。福島はというと、観光客も徐々に戻り、県内の経済状態も震災前のレベルに戻りつつあります。
    しかし、原発周辺の地域では復興の遅れが目立ちます。原発事故による放射能汚染のため、周辺に住んでいた住民の人々は、4年以上経った今でも避難を強いられているのです。廃炉が完了するまでに最長で40年かかるとされているので、高齢者の方々はもう故郷には戻れないと悲観している人も多いそうです。実際、若い世代では故郷に戻ることをあきらめ、避難先で家を建てそこで生活していくことを決めた家族も多いと聞きます。私の親友も原発の町の出身ですが、今はいわき市に定住し、もう戻らないそうです。原発の周辺地区の復興は、住民の帰還問題を含め、長い時間がかかりそうです。
     福島県は農業県で、果物やお米、豊かな自然が魅力です。放射能汚染によってこれらの産業は大変なダメージを受けてしまいました。放射能が検出されない生産物が風評被害を受けないよう、根気強く消費者に訴える必要があります。福島県の桃やなしはとても甘くておいしいので、いつか皆さんが安心して食べられるといいなと思います。

  4. 現地の人に伝えたいメッセージとこれからについて

    フランスは原発大国だと聞いています。アメリカとロシアと日本では、重大な原発事故が起こりました。フランスでも起こらないとは限りません。原発の周辺地域の皆さんは何か具体的な対策をしているでしょうか。福島の経験から、私は皆さんに十分な備えをしておくことを勧めます。水や食料の備蓄はもちろんですが、万一の時のための避難先を作っておくことがとても大事だと思います。緊急時にはこのように避難する、と前もって家族と打ち合わせしておく必要があります。また、原発事故の際にはガソリンが不足し、ガソリン不足で避難できなかった人もいるので、常日頃からガソリンを満タンにしておく習慣をつけておくことを勧めます。日頃から危機管理能力を養うことが、災害や重大事故への備えとなります。
    東日本大震災は大変な被害と苦痛を私たちにもたらしましたが、一方で、当たり前の生活の大切さや家族の大切さに気づくことができました。また、フランスをはじめ世界各国からの支援を受けることができ、復興に向けて前進することができました。福島県や東北地方を代表して御礼を述べたいと思います。ありがとうございました。


  1. 通学バスの中で電話も信号機も止まってバス停まで迎えに来るはずのお母さんとも連絡が取れませんでした。
    その後の事は覚えていません。
    どうやって会ったのか、車に乗り込んで帰ったのかも覚えてません。
    母は一つ目の信号が壊れて止まっていたことしか覚えていないそうです。
    自宅そばに祖父母の家があり、二人とも80代だったため、妹と母と三人で行き、父は仕事中だったため、暗くなってから来ました。
    それもよく覚えていません。
    翌朝、家に戻ると何ヶ所かひびが入り、ライフラインは止まっていました。
    2週間ライフラインが止まりました。
    三日後から具体的な被害、不幸がわかりました。
  2. フランス国から日本国へ核専門チームの派遣をするという話がありましたが、日本はこれを受け入れるべきだったと思います。
    実は祖父の友人が1995年に起こった阪神淡路大震災当時、防衛大臣で後日お会いしたときに、自衛隊の派遣、そして各国の受け入れを憲法によってスムーズに出来なかったと泣いておられました。
    世界中、どこでも命以上の大切なものはないと思います。そんなときには決まりはいらないと断言します。
    それでもホウ酸や防護服などを受け入れやすい工夫をなさり、支援を続け下さったフランスに感謝申し上げます。
  3. 沿岸の復興についてはこれからもご報告されると思いますので、私は放射能についてお話いたします。
    私の住んでいる盛岡市はなんと日本の中でも放射能が少ない地域です。ですが、福島原発から250km北にある山に囲まれた小さな村では風向きや天候のせいで、盛岡市の3倍の放射線量がありました。
    農地はほとんど20cm以上掘り返して大変だったと聞きました。
    日本人は誠実で震災のときも整列をして買い物をすると世界中で感動をもらいましたが、その中でも一番人柄が良い県と評価されたのが、岩手県盛岡市です。
    一度遊びに来ていただいたなら分かると思います。
  4. 歴史ある建造物が数々残っているこの地域にお住まいの皆さん、地震や津波があると、全て無くなってしまいます。
    不意に見上げる教会一つでも今まだそういった被害がない証です。
    平和に感謝すべきです。
    自然災害だけは人間の科学も知恵も及びません。
    とてもうらやましいです。
    私は伝統芸能という古きよきものを守る立場にいます。このことをきっかけに末永く文化交流し、日本とフランスの架け橋になりたいと思っております。
    恩返しをさせてください。

東日本大震災について

  1. 東日本大震災について・被災した自身の経験
    2011年3月11日 14時46分東北地方太平洋沖地震とそれに伴って発生した津波、その後の余震により引き起こされた大規模地震災害を東日本大震災と呼びます。
    震災による死者、行方不明者は18475人が確認され、日本政府は被害額16兆~25兆円と試算しています。これは世界銀行の推計で自然災害により経済損失額としては史上1位としています。
     私は仙台で津波の被害の一番ひどかった七郷という地域に住んでいます。すぐそこまで津波が押し寄せ、悲しいことに親戚・友人が多数亡くなりました。震災の日から私たちは物が散乱した家の中やがれきの片づけをしたり、空いているスーパーを探して食べものを調達したりと家族や地域の為に動きました。今でも小さな揺れを感じるとあの日を思い出し、震えたり寝れなくなったりしますが、家族とともに乗り越えていきたいと思っています。
  2. 訪問国や各国からの支援と復興の様子について
     179か国の地域から計227億円が寄せられた。義援金で私の地域では線路の復旧、津波に負けない堤防を建設中です。フランスからは救助隊がチャーター機で来国、たくさんの人の力と支援物資をいただきました。
     私の住む地域は津波で建物が全て流され、何もなくなりました。今はそこに新しい団地や田んぼが建設されているところです。しかし、逆に未だに9万人の方が仮設住宅で暮らしている現状もあります。
  3. 東北の現状と地元の魅力について
     皆さんの支援のおかげで少しずつ復興へ向かっていると思いますがまだ支援の力が必要な場所、地域はあります。私たちはこれからも何ができて何をすべきか考え行動することが大切だと思います。
     私の地元は近所の交流が多くお互いに助け合うことのできる地域です。そして、これだけの震災に見舞われながらもあきらめず前に進もう、みんなで頑張ろうとしています。人の温かさ、そして地域力の強さが東北も魅力だと思います。
  4. 現地の人に伝えたメッセージとこれから
     私たちは1000年に1度の大震災を経験しました。それは苦しさ、悲しさとともに失うものも多く恐怖と絶望でした。しかし沢山の国の人に支えられ、助けられ復興が進んでいること大変感謝しています。震災から学んだことは沢山あります。防災準備は常にしておくこと、何とかなるさというめげない精神力、日々生活できる当たり前のことへの感謝などこれから生きていくのに大切なことを知ることができました。私はこの学びを日本だけでなく世界の人に伝えたいと思います。

  1. 今から4年前、巨大地震が私たちを襲いました。約3分間と長い揺れであったため、人生で初めて死を意識しました。沿岸部では予想もしていなかった大津波がきました。私は約1ヵ月間ライフラインの使えない生活を経験しました。食料を買うためにスーパーに何時間も並び、家では使いたいものも使えず、不便な生活の毎日でした。
  2. フランスは震災後、100人以上のレスキュー隊員や、毛布,飲料水,食料品,医薬品などを送ってくださりました。たくさんのご支援ありがとうございました。
    現在の復興状況について、この2枚の写真をご覧ください。震災6ヶ月後に避難所生活から仮設住宅に移り住むことができました。震災から3年後にできた復興住宅です。このように4年経った現在、復興がしてきました。また、徐々に電車が開通されるなど、交通便もよくなりつつあります。
  3. 都市部では復興も進み、震災前と変わらない様子が見られます。私も生活していて、不便なことはありません。しかし、沿岸部では復興の進みが遅く、都市部と沿岸部で復興の格差が目立ちます。
    私の地元宮城県仙台市では、毎年8月に七夕祭りが開催されます。約200万人と多くの観光客が訪れます。七夕祭りでは、100万羽の折り鶴が竹に吊るして飾られます。その通りを歩きながら楽しみます。
  4. これから私達は、震災前の元の町、それ以上に素晴らしい町作りをしていかなければなりません。そのためには、仕事や生活上地元を離れていった人々が戻ってこられるような環境を作り、次世代を担う私達が地元の人々と協力していかなければならない。また、4年たった今、東日本大震災を忘れてしまいそうな時があります。絶対忘れてはいけないあの日のことを広くたくさんの人に語り継いでいかなければならないと思います。

  1. 東日本大震災の概要と被災した自身の経験について

    2011年3月11日にマグニチュード9.0の地震が発生しました。
    この地震で東北地方から太平洋側を中心に広い範囲で津波を観測しました。
    今回の犠牲者のほとんどが津波によるもので、多くの命が失われました。
    東日本大震災から4年が経ちました。
    時の経過とともに、普通の日常を取り戻すことができている人も多いですが、まだ困難な状況の中、復旧への長い道のりを覚悟しながら必死に頑張っている人がたくさんいます。
    うしなったものは多いけれど、今まで不自由なく使っていたものの大切さやどれだけ私たちの生活を支えていたのか身をもってしることができました。

  2. 訪問国や各国からの支援と復興の様子について

    今回の地震で、私たちは多くの人々に助けられました。
    震災では家や学校などたくさんの思い出が一瞬でなくなりました。
    被災した東北の人々はこれからの生活に不安を抱いていたと思います。
    その中で、私たちに希望を与えてくれたのが、各国からの応援メッセージや支援物資、義捐金のニュースでした。
    アメリカ、フランスなど各国の人々が日本のために協力してくれたことで、東北の人々の大きな希望になりました。
    建物や道路が復旧することは復興への第一歩だと思います。
    ですが、私が思う復興は、一人ひとりが震災を胸に刻み、自分の夢に向かって新たに努力してく姿だと思います。

  3. 東北の現状と地元の魅力について

    私の住んでいる福島県にはスパリゾートハワイアンズという温泉リゾート施設があります。
    ハワイアンズは東日本大震災で被災し、屋内プールなどの主要施設が破壊し長期の休業を余儀なくされました。
    復興を目指す象徴的な活動となった「フラガール全国絆キャラバン」は海外を含む全国125ヶ所を訪問し、247の公演をやりきったフラガールは日本中に笑顔、元気、希望を与えてくれました。
    被災者であるにもかかわらず、日本に大きな盈虚を与えてくれたフラガールは東北、福島の魅力の一つです。

  4. 現地の人に伝えたいメッセージとこれからについて

    東日本大震災では、東北の人々が色々なものを失いました。
    それと同時に日本とさまざまな国とのつながりができました。
    私は、日本を支えて希望を与えてくれた世界の人々にとても感謝しています。
    なので、この機会に少しでも多くの人に感謝を伝えることができてうれしく思います。
    二週間の海外ホームステイの中で、自分の消極的な性格を変えるためにも自分から積極的にたくさんの人とコミュニケーションをとりたいです。
    そして、フランスの文化を知るとともに、日本の文化についても知ってほしいです。

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  1. 2011年3月11日14時46分マグニチュード9・0の地震が起きました。それにより大規模な津波が発生し死者15891人いまだに2579人が行方不明となっている。建物は全壊118822戸、半壊184615戸 約30万戸の被害規模であった。
    沿岸部では、津波の被害により壊滅した地域も出た。
    震災当時小学3年生だった僕は今何が起こったのか分からず机の下に身をひそめ大変不安な気持ちで揺れが収まるのを待ち、みんな親に学校に来てもらい帰宅した。その後停電・断水・ガス停止により住むところも明かりも情報も食料もない生活がはじまり、これからが不安になった。
    津波の甚大な被害をしったのも、2~3日あとことでした。
  2. 3月11日の東日本大震災で巨大津波に何もかもが押し流され、カキ養殖業も壊滅状態となった。
     そんな三陸のカキ養殖業者たちへの支援として、カキ養殖に必要な装備7トン相当がおくられてきた。送り主は、仏西部地域圏の同業者たち。
     支援プロジェクト名は「France o-kaeshi(フランスお返し)」作戦だ。
     フランスでは1970年と90年にカキの病気が蔓延し、養殖産業が危機に陥った。そのとき、カキの幼生を送って窮地を救ったのが、日本の養殖業者たちだった。
    「フランスお返し作戦」をコーディネートするロベール・ヴェルディエ氏はこう語る。「日本では、贈り物をもらったらお返しをする。だから今度はフランスがお返しをして日本を助ける番です。歴史が逆転したのです。」
     支援作戦を通じて日仏両方の業者は連携している。
    復興の様子は、道路や施設、インフラの復旧は順調に進み、仮設住宅に住んでいる人の3分の1は公営住宅に移り始めてはいるが、家族・親戚を失い、元の家にも戻ることができず従来からのコミュニティを取り戻すことはできなくなっている状況が多くみうけられる。
  3. 震災で甚大な被害にあった沿岸地域は、立ち上がろうと一生懸命復興にむけ努力し、水産業も徐々に立ち上がってきています。
    しかしながら被害の少なかった都市部では、被災地の宮城県でもさえも震災から4年がたち、時間と共に気持ちが離れ風化がはじまっていると感じています。
    仙台の魅力は、東北地方唯一の100万人都市ではあるが自然との共生が図られた街づくりがなされ、暮しやすいところであり、海・山にも近くさまざまな事も体験できる。
    また、伊達政宗の城下町であるため歴史的な建物・地名・通りが今でも残っており、歴史とも共生がされている都市でもある。
  4. 救援物資や暖かい思いをありがとう。
    それは僕たちにとって唯一の食料であったり、心強い力さに代わってとてもありがたかったです。
    復興とは失った家族・絆がないままに震災前の状態の戻すことなのか?
    「本当の復興とは、何なのか?」
    僕の考える復興は、みんなが心からの笑顔で前向きな気持ちになれる事ではないかと思います。でもそれが正解かもわかりません。
    これからも考えていく事しか出来ないけど、人の気持ちに寄り添って考えていくことが大切な事だと思っています。

みなさん、こんにちは。
日本の宮城県仙台市に住んでいます。
中学2年生です。
本日はこのような機会をいただけて嬉しい気持ちです。
私がお伝えしたいことは、地震と津波があった時のみなさんからの支援への感謝です。

2011年3月11日大地震が起きました。地震と津波でたくさんのひとが大切な命を失いました。そのとき、私は小学3年生でした。
私のまちに地震が起きてからすでに4年が過ぎましたが、今でも震災を昨日のことのように(鮮明に)思い出します。
雪が降り、寒い日でした。怖くて自分を守ることに必死でした。
どうすればいいのかわかりませんでした。
自宅はめちゃくちゃにこわれましたが、幸いにも家族は無事でした。
水と電気が数日使えず、ガスは1ヶ月使えませんでした。森の中にいるようでした。
食べ物や水を手に入れるためにたくさんの人がならばなければなりませんでした。食べ物を買うことが大変でした。
おとなは子供を安心させるために懸命でした。

その時、日本のみならず、海外からも大勢の人々が私たちのためにボランティア活動をしてくださいました。
印象に残っているのは、津波によって行方不明になった人を捜索する姿です。応援メッセージも力になりました。
ボランティアのために日本に来ることは大変困難なこと(家族は反対したでしょう)であったと思います。
その一方で、津波で流された鉄道が、もうすぐ全線で運転を再開します。

ここで少し、わたしの故郷をご紹介します。
私の住む仙台は日本の北部にあります。約100万人が住む都市です。そこでは季節ごとにいろいろな祭りが行われます。
最も有名なお祭りは7月に行われる”七夕まつり”です。
通りにはきれいな竹飾りが飾られます。
私が小学生の時は、友達と一緒に平和と復興を願って”鶴”を作りました。
みなさんの国には美味しい食べ物があります。仙台にもたくさんあります。例えばずんだ餅です。枝豆で作ります。甘くておいしいお菓子です。
私はこの街が大好きです。

この経験を通じて(震災を通じて)私は今を大切にことが最も大事だと気付きました。
やるべきこと、できることはすぐに行動しようと思います。
また、私がやるべきことは勉強(たくさんのことを知る)と、ふるさとの復興を考えることです。
私のまちが復興しつつあるのは、みなさんからの支援によるものです。
本日は私の話をお聞きくださり、ありがとうございました。

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東日本大震災は2011年3月11日、14時46分に発生した地震で、マグニチュード9.0、最大震度7、死者数は約15,891人、大津波警報も発令されました。私はこの時小学5年生で、まだ学校にいました。母がむかえにきて避難したのですが、避難先は石油ストーブが6台ほどあったにもかかわらず、雪が降っていたせいもあって、すごく寒かったです。夜になると津波の水によって外に停めてあった車が浸水し、「プーップーップーッ」という音がずっと鳴っていました。
それから、東日本大震災直後、日本だけではなくたくさんの国の方々から東北へたくさんのご支援をいただきました。物資だけにとどまらず、お手紙もたくさん届きました。ボランティアの方々がたくさん来てくれて、町がどんどんきれいになっていきました。
今、東北は復興にとても力を入れていますが、あまり進んでいないのが現状です。
震災から4年経って瓦礫などがなく、きれいにはなりましたが、こわれた家がそのままだったり、道路もデコボコのままだったりと、完全に元通りになるのにはもう少し時間がかかると思います。時間はかかるけれど、少しでも協力できたらと思います。
そしてみなさんに一番お伝えしたかったのは感謝の気持ちです。
こんなに距離が離れているのに、東北にそして日本にたくさんの支援ありがとうございました。私たちはみなさんに、たくさんの希望と元気をもらいました。
これからは私たち日本人が恩返しする番だと思っています。
たくさんのご支援、そして希望と元気を本当にありがとうございました。


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