- どうしてボランティアに行ったのか?
- 被災地に入るまで
- 塩釜ベースの状況
- 実際の活動について ―野々島―(5月31日、6月1日~3日)
- 実際の活動について ―桂島―(6月4日~5日)
- 実際の活動について ―塩釜―(6月5日)
- 石巻市を訪ねて(6月6日、最終日)
- ボランティアのあり方とは?
- フランスに戻って
- 最後に
はじめに
最初になぜ私がこの体験記を書こうと思ったのかについてから始めたいと思います。それは津波被害の規模と深刻さは甚大であり、今後何年にもそして多岐に渡る被災地への支援が必要であることを、少しでも多くの方にお伝えしたいからです。
もちろん日々メディアなどでもそのことは伝えられていますが、私がフランスに住んでいるということ、フランス人である夫から見たこと・感じた個人的経験談からは、また何か少し違うことをお伝えできるかもしれないと思いました。また、少しでも多くの方に読んでいただければと思い、夫にもフランス語で体験記を書いてもらうことにしました。
私たちは所詮1週間強の滞在でしたが、現場では長期間献身的に働かれている人たちに出会いました。私の体験記がその人たちのお役にもし少しでも立てば、またもちろん被災地復興のお役に少しでも立てば、これにまさる喜びはありません。
1. どうしてボランティアに行ったのか?
私が震災のニュースを聞いたのは、フランス時間3月11日の朝のことでした。
その日、私がアルバイト先に着くなりフランス人の同僚に
「麻美、日本で大きな地震があったようだよ!」
と言われたのですが、
「へ? 地震? 日本ではよくあることだから大丈夫よー」
などと言って気にしていませんでした。
ところがその後次々に入ってくる新しいニュースを見聞きするにつれ、
「これは大変なことになった!」
とまさに頭が真っ白になったことを覚えています。しかも家族に連絡を取ろうとしてもまったく取れず……。
パリの自宅の電話にも私のメールにも、いろいろな人から日本の家族や友人を心配する連絡がありましたが、私が得られるニュースといえば、ネットと日仏のテレビやラジオからですから、実際に日本がどうなっているのかは、さっぱりわかりませんでした。
テレビといえば、こちらのテレビは容赦がないというか、津波に人が飲みこまれる映像も繰り返し流れていました。それを初めて見たときの衝撃は忘れられません。映像にくぎ付けになりながら涙を流す私の横で、夫も同じく顔をこわばらせていました。さらに翌日は福島原発の衝撃的な映像が……。これらの映像を見るたびに私が精神的に不安定になるため、震災発生後3日目からは、私たちはフランスのテレビを一切見ませんでした。
ただこの頃には東京にいる家族と電話で話せてはいました。それでもとにかく不安で、アルバイト先には行ってはいたものの、同僚の気づかいの言葉も鬱陶しいだけ。パリ在住の日本人の友人と連絡を取る以外は、仕事はきちんとしていたと思いますが、暇を見つけては一人黙々とネットで逐次情報を追っているという状態でした。
その後、3月末でアルバイトの契約期間が終了しましたが、毎日心ここにあらずという感じで何をしても上の空になりがち。夫にもつまらないことでずいぶん八つ当たりをしていたと思います。
しばらくそんな私を見ていた夫がある日、
「麻美、一緒に日本にボランティアをしに行かないか?」
と言い出しました。
震災後、家族や友人たちの顔を見に日本に行きたいとは思うものの、食料が足りない、電気が足りないと言っている日本に、私たちがただ行っても邪魔になるだけ……と私は躊躇していました。そんな中、そんな提案が夫からあり、私はうれしいながらも正直戸惑っていました。というのも原発事故が起こってすぐに避難勧告を出したフランスです。そんな中、日本に行くと言ったら、夫の家族は何と思うでしょう? フランス人である夫を被災地に連れて行くことに、すぐにOKとは言えませんでした。
夫と何度も話し合いました。夫は大好きな日本の役に少しでも立てればうれしい、日本人の妻を持つ身としては当然のことだと言い、夫の両親のことは夫がきちんと説明するから問題ない、日本で私の家族や友人たちの安否を確かめつつ、被災地に行こうという結論になりました。
私の時間は震災後から止まっているようでした。私がフランスで幸せに暮らしていけるのは、母国日本の安定があるからこそだということがよくわかりました。でももし日本に行ってボランティアをしたら……? また自分の中で動くものがあるかもしれないと思いました。そうです、私が被災地に行ったのは、「自分のため」というのが一番の理由でした。
体験談の記事の次が待ち遠しいです!
野々島での活動の様子が眼の辺りに見えるような記述に引き込まれながら読ませて頂きました。写真もいいですね。
体験談がなぜこんなに細切れになってしまったのか、読む側としてはちょっと残念です。
全文が掲載されるまで待ってから最後に纏めて読む方が、連載としてよりも印象に残る気がします。
粟田さま
貴重なご意見をどうもありがとうございました。
荒木さんご夫妻のレポートは8日間の現地でのボランティア活動と前後の経緯・心情が綴られています。
長文を分割する必要があったのはもちろんですが、なるべくレポートの時間軸に沿って掲載したい意図がありました。と申しますのは、ご存知の通り復興は一気に進めたくとも実際には非常に時間がかかり、また特に海外では始めはニュース等で大きく取り上げられても、やがて忘れられてしまいがちです。
少しずつしか進むことができないけれども、継続的に思い出していただければ、という試みで連載の形を採らせていただきました。
このレポートは連載終了後も永く掲載し続けますので、また是非まとめてお読み頂ければ幸いです。
本当にどうもありがとうございます。
こんにちは。麻美さんの体験談を拝見させていただきました。私は今現在アメリカに住んでいます。今回コメントさせていただいたのは、今度大きなペーパーを書くのですが、その際の私のペーパーの主題が東北地方太平洋沖地震です。ペーパーをサポートするために経験者の方にメールで何問か質問をさせていただきメールを通じてインタビューをさせていただけたらと思います。
もしお時間があれば、Eメールという形になりますがご協力お願いいたします。
何度もすいません。Eメールじゃなくても大丈夫です。
質問は、
1、地震が起こった時の人々、政府の対応。
2、地震が起こった後の人々、政府の対応。
3、現地に行った時に身を以て感じた深刻な問題。
4、国単位で被災者の方々や問題解決のためにすべきこと。
5、個人個人で被災者の方々や問題解決のためにできること。
少しお時間取られますが、お願いいたします。
竹村様
お問い合わせありがとうございました。
メールにて返信させていただきます。
これから、寒くなりますから、毛布、布団をたくさん用意してください。そして、何日に地震がおきたら、家計簿に地震おきた、時間と震度を書いておくこと。そして、2階にも、すぐに逃げられるように、非常階段をつけておくこと、非常口を作ってください。