4. 実際の活動について ―野々島―(5月31日、6月1日~3日)
さて、私たちはベースに着いた翌日から活動を開始しました。普通のマスクではない防塵マスク(これはとても役に立ちました。作業の終わりにはマスクが真っ黒!)にヘドロ避けのために上下雨合羽に長靴、ゴム手袋をはめ、ヘルメットとゴーグル(これはほとんど使わなかった)といういでたちでした。割と軽装で来る人も多く、そういう人のためにはベースでグッズを提供していました。あとは各自で飲み水、昼食、おやつなどを持参しました。
構成メンバーは日々変わるのですが、日本全国20歳くらいから70歳以上の老若男女、主婦、学生、休職中、休暇中、定年後、などなどバラエティに富んでいました。日本在住の外国人のほか、私たちのように海外から来る人も少なくないようです。人数ですが、平日は少なくて10人ちょっと、週末に向けて25人くらいになるという波があるようでした。私たちは地元の社会福祉協議会の活動に加わるという形で活動しました。
初日は塩釜港から船に乗って1時間弱ほどのところにある、野々島というところに行きました。野々島を含む浦戸諸島は津波の被害を直に受け、そのおかげで松島や塩釜市への被害は比較的少なかったとのこと。
確かに島はまさに壊滅的な状況でした。予想していたようなヘドロなどの異臭はほとんどしませんでしたが、家々から運ばれた家具や冷蔵庫、畳、その他無数のごみが海岸に山積みされていました。これらのごみを回収に来るのはいつかわからないということで、燃える物は島民で燃やしていたため、あちらこちらから黒煙が上がっていました。
実際行政の手が入ったのは遅く、私たちが野々島に入った時点では、トイレが島に1カ所しかなく、残っている島民は歩いて、または自転車でトイレに通ってくるとのことでした。
私たちが向かったのは一人暮らしだったものの、震災後入院されたというおじいさんのお宅で、自宅および庭の清掃をさせていただきました。家の扉も流されてしまったその無人の家は真っ暗で、庭も家の内外から流れついたゴミだらけ。一瞬「本当に片付けられるのだろうか……」と思いましたが、とにかくやるしかないと、海水が染み込んで臭く重くなった畳や布団、食器、調理器具、衣類など、すべて捨ててよいということでしたので、ありとあらゆるものを黙々と海辺に運び、燃やし、運び、燃やし……。結局丸2日間かかってほぼ完了しました。
途中、写真もたくさん出てきました。そのお宅のものかはわかりませんでしたが、家族の集合写真やお孫さんと思われる赤ちゃんのお宮参りらしき写真などなど、結婚し、子供が生まれ、孫が生まれ、ごくごく普通の穏やかな暮らしが津波によって一瞬で消えてしまったという現実がそこにありました。
野々島には4日間通いました。
島全体が地盤沈下してしまったため、満潮になると水が入ってくるというので、そのうち丸1日はひたすら土嚢を作って複数の家庭に運びました。最初は1軒のお宅のみということだったのですが、私たちの活動を見た島の人たちが「うちもお願いしたいんだけど……」ということで、結局4~5軒のお宅に合計200個くらいの土嚢を作ってリヤカーでえっちらおっちら運んだのではないかと思います。
残りの1日はまだそこに住んでいらっしゃる方のお庭の清掃でした。得体のしれない巨大な鉄屑などもあり、重機なしにはとてもすべては片付けられませんでしたが、そこに住むお母さんがそれでも少しは片付いた庭を見て、
「これでまたお花が植えられるわー!」
とうれしそうに言っていたので「あぁよかった。少しは役に立っている」と、ほっとしたというかそんな感じでした。というのも被害があまりに大きいので、素人の私が1週間活動したからって何になるというのだろう、と無力を感じていたのですが、この言葉で救われた思いがしたのです。それに実際、1日から2日かけて1件のお宅の清掃が大体終わるのですから、長い目で見れば私たち一人ひとりの力は決して小さなものではないのです。
ただ一つ気になったのは家をどこに建て直すかということ。このお母さんの家は幸い残っていたのですが、離れは流されたそうですし、またいつか津波が来たら今度は被害を受けるかもしれません。
「もう少し高台に建てることはできないのですか?」
という問いに、空いている土地はないし、ほかの場所に住むことは考えられないということでした。
私たちが野々島で出会った人々は全部で15人にも満たなかったかもしれません。というのもほとんどの人が島外や高台にある避難所に移っていたからで、もともと島民数140人くらいとはいえ、本当に寂しい光景でした。
ただ、お庭を片付けているときにお母さんに聞いたのですが、野々島では毎年お盆に合わせて花火大会があるそうで、何と今年も開催するそう!
「毎年うちの離れに子供たちやその家族・友人、親戚なんかが集まって、海で取れた物をバーベキューしながら見ていたのよ。その離れも津波で流されてしまったけれど……。今年は無理でもぜひいつか見に来てちょうだいね!」
というお母さんの言葉に、いつかまた復興した島の姿を見に来たいなと心から思いました。
体験談の記事の次が待ち遠しいです!
野々島での活動の様子が眼の辺りに見えるような記述に引き込まれながら読ませて頂きました。写真もいいですね。
体験談がなぜこんなに細切れになってしまったのか、読む側としてはちょっと残念です。
全文が掲載されるまで待ってから最後に纏めて読む方が、連載としてよりも印象に残る気がします。
粟田さま
貴重なご意見をどうもありがとうございました。
荒木さんご夫妻のレポートは8日間の現地でのボランティア活動と前後の経緯・心情が綴られています。
長文を分割する必要があったのはもちろんですが、なるべくレポートの時間軸に沿って掲載したい意図がありました。と申しますのは、ご存知の通り復興は一気に進めたくとも実際には非常に時間がかかり、また特に海外では始めはニュース等で大きく取り上げられても、やがて忘れられてしまいがちです。
少しずつしか進むことができないけれども、継続的に思い出していただければ、という試みで連載の形を採らせていただきました。
このレポートは連載終了後も永く掲載し続けますので、また是非まとめてお読み頂ければ幸いです。
本当にどうもありがとうございます。
こんにちは。麻美さんの体験談を拝見させていただきました。私は今現在アメリカに住んでいます。今回コメントさせていただいたのは、今度大きなペーパーを書くのですが、その際の私のペーパーの主題が東北地方太平洋沖地震です。ペーパーをサポートするために経験者の方にメールで何問か質問をさせていただきメールを通じてインタビューをさせていただけたらと思います。
もしお時間があれば、Eメールという形になりますがご協力お願いいたします。
何度もすいません。Eメールじゃなくても大丈夫です。
質問は、
1、地震が起こった時の人々、政府の対応。
2、地震が起こった後の人々、政府の対応。
3、現地に行った時に身を以て感じた深刻な問題。
4、国単位で被災者の方々や問題解決のためにすべきこと。
5、個人個人で被災者の方々や問題解決のためにできること。
少しお時間取られますが、お願いいたします。
竹村様
お問い合わせありがとうございました。
メールにて返信させていただきます。
これから、寒くなりますから、毛布、布団をたくさん用意してください。そして、何日に地震がおきたら、家計簿に地震おきた、時間と震度を書いておくこと。そして、2階にも、すぐに逃げられるように、非常階段をつけておくこと、非常口を作ってください。