東北地方太平洋沖地震 津波被災地ボランティアレポート
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7. 石巻市を訪ねて(6月6日、最終日)

塩釜に着いて8日目の月曜日の午後、私たちは東京に戻る予定だったので、また離島に行って作業する時間はありませんでした。その代わり、ブラザーが石巻のベースに届け物をしつつ、東京の教会の神父様を石巻市の視察に連れて行かれるということで、それに同行して私たちも石巻市を訪ねました。

あの辺で最大の被害を受けたという石巻市ですが、それは土地の作りにあります。地域の多くは石巻平野の平地となっていて、津波が来た際、逃げようにも逃げるところがなかったのです。死者・行方不明者は石巻市の7月の発表によると、4千人強となっています。

塩釜から一見大きな被害のなさそうな松島を抜けて石巻に入ると、その被害状況にはただただ茫然とするばかりでした。離島の被害もひどかったのですが、石巻の被害は何せ広大なのです。浸水範囲は73平方キロメートルということなので、山手線内全部より若干広いくらいといえばイメージしていただけるでしょうか? 東京大空襲後の写真のような光景が広がっています(夫は「原爆投下後の広島みたい」と言っていました)。とにかく何もない。本当にまったく何もない。たまに残っている建物も窓は割れ、火災があったのでしょう、黒こげになっていたり……。

そんな中、まず私たちが向かったのはもともとサッカー・野球場だったという仮墓地です。火葬が間に合わず、ここに土葬をしているのだとか。

「私のこの足下に亡くなった方が土葬されている……」

ということにただただショックでした。ここに埋められている方たちの身元はまだわからないので、整然と並ぶ墓の上にはただ番号が並んでいたのですが、それでもたくさんの花が供えられていました。ブラザーに理由を聞いてみると、

「親族を探している人が、自分の家族かもしれないとお花を置いていくんですよ」

とのこと。私は言葉を失いただ黙るのみでした。

神父様とブラザーはその場でお祈りを始めたのですが、クリスチャンではない私もお祈りの言葉は知らないながら、一緒に手を合わせて亡くなられた方のご冥福を心からお祈りしました。

その後、石巻港周囲を回っても廃墟となった倉庫群や陸に打ち上げられた漁船などしか見えず、見える人といえばほとんどが自衛隊のみ。ここで働いていた人たちの仕事は今後どうなるのか……。

住宅街にも行ってみましたが、独特の異臭のする中に乾いたヘドロが舞い、コンタクトレンズをしていた私は目も開けられませんでした。ところが驚いたことに、そこに住んでいる人を何人も見かけました。建物の作りが丈夫だったのでしょう、1階は浸水していても建物自体は残っており、避難所を出て2階に住んでいらっしゃるようでした。ゴーストタウンとなった町に突然洗濯物が翻る光景というのは、何とも不思議としか言いようがありませんでした。

がれきに埋もれた家を一人で片付けるおばあさん、倒れた墓石を黙って積み直すおじいさん、ボランティアの入るところはまだまだ数え切れないほどありました。こういった行政の手の入りづらいところには、今後数年単位で継続的にボランティアが必要なのではないかと感じました。

ヘドロが乾燥した状態。風が吹くとこれが風に舞う。ヘドロの中には私たちの出した汚染物質が含まれている
津波により扉やガラスの割れた1階にはビニールシートを貼り、残った2階に住む人がちらほらいた
道路の清掃はほぼ終わっていたものの、商店街がかつてのようになるのはまだまだ遠い


港周辺。見事に何もない
津波で陸に打ち上げられた漁船
高台から見た石巻平野
 



7 Responses to 東北地方太平洋沖地震 津波被災地ボランティアレポート
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  1. 粟田御鈴 より:

    体験談の記事の次が待ち遠しいです!

  2. 粟田御鈴 より:

    野々島での活動の様子が眼の辺りに見えるような記述に引き込まれながら読ませて頂きました。写真もいいですね。
    体験談がなぜこんなに細切れになってしまったのか、読む側としてはちょっと残念です。
    全文が掲載されるまで待ってから最後に纏めて読む方が、連載としてよりも印象に残る気がします。

    • Kyo ICHIDA より:

      粟田さま
      貴重なご意見をどうもありがとうございました。
      荒木さんご夫妻のレポートは8日間の現地でのボランティア活動と前後の経緯・心情が綴られています。
      長文を分割する必要があったのはもちろんですが、なるべくレポートの時間軸に沿って掲載したい意図がありました。と申しますのは、ご存知の通り復興は一気に進めたくとも実際には非常に時間がかかり、また特に海外では始めはニュース等で大きく取り上げられても、やがて忘れられてしまいがちです。
      少しずつしか進むことができないけれども、継続的に思い出していただければ、という試みで連載の形を採らせていただきました。
      このレポートは連載終了後も永く掲載し続けますので、また是非まとめてお読み頂ければ幸いです。
      本当にどうもありがとうございます。

  3. 竹村友美 より:

    こんにちは。麻美さんの体験談を拝見させていただきました。私は今現在アメリカに住んでいます。今回コメントさせていただいたのは、今度大きなペーパーを書くのですが、その際の私のペーパーの主題が東北地方太平洋沖地震です。ペーパーをサポートするために経験者の方にメールで何問か質問をさせていただきメールを通じてインタビューをさせていただけたらと思います。
    もしお時間があれば、Eメールという形になりますがご協力お願いいたします。

  4. 竹村友美 より:

    何度もすいません。Eメールじゃなくても大丈夫です。
    質問は、
    1、地震が起こった時の人々、政府の対応。
    2、地震が起こった後の人々、政府の対応。
    3、現地に行った時に身を以て感じた深刻な問題。
    4、国単位で被災者の方々や問題解決のためにすべきこと。
    5、個人個人で被災者の方々や問題解決のためにできること。
    少しお時間取られますが、お願いいたします。

  5. 北村 幸子 より:

    これから、寒くなりますから、毛布、布団をたくさん用意してください。そして、何日に地震がおきたら、家計簿に地震おきた、時間と震度を書いておくこと。そして、2階にも、すぐに逃げられるように、非常階段をつけておくこと、非常口を作ってください。

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